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MITSUBISHI Heavy Industries Recruiting Information
MYPAGE

キャリアインタビュー

AKIKO SHINOZAKI
篠崎朗子

エネルギー・環境ドメイン
技術統括室
次長
[1986年入社]
理学部数学科卒業
男女雇用機会均等法の第一期生として入社

「NO」と言わない、
そう決めたことで自分の世界が広がった。

男女雇用機会均等法の第一期生として入社

 篠崎朗子の大学時代の専攻は数学だった。
「そのころは学校の先生になれるのかな、という軽い気持ちで理学部に進みました。ですから三菱重工どころか、メーカーで働いている自分なんて想像できなかったです」
 しかし、少子化の影響を受けて教員の採用枠は徐々に減りつつある。不安を感じ、ほかの道も模索し始めた。
「数学を活かす分野としてプログラマーやシステムエンジニアという仕事が少しずつ知られるようになっていました。ですから、私にもそういう方向があるのではないかと考えるようになったのです」
 しかし、時代はまだ1980年代の半ば、コンピューターはまだ一般的な存在ではない。そんな中、あまり深く考えることなく飛び込んだのが三菱重工だった。
「配属された相模原製作所はいかにも機械工場といった風情で、みんな作業着にヘルメットで働いている。まさに男の世界であり、そこで自分がどんな仕事をしていけるのか、まったく分かりませんでしたね」
 それでも同じ場所に配属された同期にもう一人女性がいたほか、職場にも3人の女性の先輩がいたので、独りぼっちではなかった。
「私が入社した1986年は男女雇用機会均等法が施行された年であり、男性と同じ条件で採用された総合職の第一期生だったのです。だから受け入れる側も、どう扱ったらいいか分からなかったのではないでしょうか。ただ仕事についていえば、女性だから差別されたり区別されたりしたことはいっさいなかったですね。この点、三菱重工は非常にしっかりした会社だと思います」
 最初に担当した仕事は1990年に制式化された90式戦車の射撃訓練用シミュレーターの製作だ。
「コンピューターの記録装置がカードリーダーとオープンリールテープ、言語もFORTRANという時代でしたが、マシンが非力な分、自分たちでしっかり論理立ててプログラムをつくっていく必要があり、いい勉強になりました」
 座標計算や弾道計算などで数学の知識を活かせる機会が多かったのも幸いした。
「このときにものづくりのステップをみっちり学べたことが、その後の仕事のやり方を決める大きなきっかけになったと思いますね」

人生に迷ったときに声を掛けてくれた先輩

 入社9年目、篠崎は防衛庁(現、防衛省)向けの仕事から離れ、工場などで使われる無人搬送車(AGV)の車両制御ソフトウエアと運行管理システムの設計・製作担当になる。
「三菱重工でつくっているAGVは製鉄所などで重量物を運ぶ巨大な車両ですから、全てオーダーメイドで、お客様の要望を形にしていきます。しかも無人運転ですから、24時間ノントラブルで動かせ、絶対的な安全性が求められる。製品としては非常にレベルの高いものでした」
 それまでの経験を活かし、緻密なプログラムをつくりあげるが、実際にお客様の工場に設置して試運転を始めたところ、システムに想定していなかった不具合が出た。
「室温や天候などの環境を完全に想定しきれていなかったため、機械とシステムの連携がうまくいかなくなってしまったのです。このときは私を含めて3人しかスタッフがいなかったので苦労しましたが、他部門の方にピンポイントで協力を仰いだりして、何とか解決することができたのは幸いでしたね。そして仕事ではじっくり考えるだけでなく、臨機応変の対応力も大切なのだと身をもって感じたのです」
 その後、クレーン台車やフォークリフトなどの産業車両を次々と担当し、役職も主任、そして課長へと上がっていく。
「フォークリフトは年間何千台もつくる量産品で、受注品の大型AGVとは全く違う発想で仕事を進めなければなりません。戦車、AGV、フォークリフトと、相模原の一つの事業所にいただけでも多様な経験ができる。こういうところも三菱重工の魅力の一つかもしれません」
 経験の広さは自分の成長につながる。そう信じる篠崎は、新しい仕事を打診されたときでも絶対に「No」と言わないことに決めている。
「実は入社して数年たったころ、会社を辞めようかと考えたことがあったのです(笑)。今思えば大した理由ではなく、技術者として続けていく自信がなくなり、どうしたらよいか分からなくなったからです」
 上司に相談し、退職がほぼ決まりかけたとき、全くほかの部門の役職者が「辞めるぐらいならこっちに来ないか?」と誘ってくれた。そして退職を留まり、環境が変わったことで彼女は再び意欲を取り戻す。
「人生って不思議ですよね。それまでの悩みがなんだったというくらい自信をもって働けるようになりました」
 そして、そのときの反省を込めて、どんな仕事でも受け入れるようになった。
「若い人は自分の専門にこだわりがちですが、そのことによってかえって可能性を狭めているのかもしれません。それに今やっている仕事の本当の結果がでるのは、もっとずっと先かもしれません。だから、何でもチャレンジしていってほしいですね」

技術をビジネスに結びつけるセンスの大切さを知る

 2010年、すでに次長となり、産業用車両製品の新規開発のとりまとめを担当していた篠崎に新しいミッションが命じられる。
「それは、社内で開発中だったリチウム二次電池の事業化を考えてほしいという依頼でした。要するに、新しい電池を使った産業用車両を製品化できないかという話だったのです」
 技術的な問題には、スキルをもった技術者が大勢いた。AGVでもフォークリフトでも、それまでの鉛蓄電池の代わりにリチウム電池を使えばいい。しかし、問題は価格だ。
「産業用車両は企業が設備投資として買うものですから、適正な価格帯というものがあります。リチウム電池と専用の制御装置を積んだら、当然、値段はかなり高いものになってしまうわけで、いくら性能の高さを説明しても、導入に踏み切る会社は少なかったのです」
 それでも4年ほど事業化の仕事を続けたが、最終的には会社の方針としてリチウム二次電池事業からの撤退が決まる。
「私自身、技術については多くの経験を積んできたものの、事業企画といった分野では全くトレーニングをしておらず、リチウム二次電池のビジネスに関しては結果としてほとんど貢献できなかったという思いです。ただ、技術をビジネスに結びつけるためのセンスを磨いたり、知識や経験を増やしていく大切さを学びました。リチウム二次電池に関する苦い経験は、そのことを明確に教えてくれたのです」
 2014年6月、篠崎は30年近く勤めた相模原を離れ本社勤務となる。エネルギー・環境ドメイン事業開発室次長に就任したからだ。
「これからはもっと専門的に事業開発の仕事に取り組まなければなりません。ドメイン内だけでなく社内を横断的に眺めてクロスドメインによる新事業にも挑んでいく。簡単ではありませんが、もっと視野を広げ、このくらい責任のある仕事にチャレンジしていかなければならないステージになったと感じています」
 ただし彼女自身、責任があるからマイナスだと考えるのではなく、責任があるからこそ楽しもうと考えている。
「私のモットーは、後ろを振り返らないことです。過去から学ぶことも必要ですが、それよりも、まず前を見て、ポジティブに考えることが大切でしょう。そうすれば、いつか必ずよい結果につながる。そう信じているからこそ、どんな課題にも全力で取り組もうと思っているのです」

CAREER PATH

1986
三菱重工に入社。相模原製作所実験研究部電子制御技術課に配属され、90式戦車射撃訓練用シミュレーターの制御システムに関するプログラミングと試験を担当する。
1996
相模原製作所車両・機器技術部車両・機器設計課に異動。無人搬送車(AGV)、運搬用大型車両の車両制御ソフトウエアおよび運行管理システムの設計・製作を担当。(1998年 主任に昇進)
2005
汎用機・特車事業本部産業車両技術部電子制御設計課主席技師に。(2008年 課長に就任)。無人搬送車(AGV)やクレーン台車などの産業車両開発とフォークリフトの制御コントローラ開発のとりまとめを行う。
2010
汎用機・特車事業本部パワートレインシステム部次長に就任。
2011
本社に異動。リチウム二次電池事業化推進室副室長に就任。
2014
エネルギー・環境ドメイン事業開発室次長に就任。ESS推進グループ長も兼務する。

パーソナルデータ

性格はインドア派で、休日は料理や縫いものなどの家事をすることも好きなので、仕事とのON-OFFバランスを保っている。ただし、最近は旅行を楽しむことにも目覚め、手始めに伊勢や出雲、奈良など修学旅行で行ったようなところを再訪している。